2011年4月15日金曜日

札幌時計台の〜 の続き

時計台の近辺、人通りがなく寂しい、元気がない、元気が出ないと書きましたが、思い出したことがあります。
数年前、その日初めて音楽療法に参加された方が、中頃に「いや〜!騒がしくて〜・」と大きな声。私は、ドキッとしました。
いつも静かな所で暮らしてきて「こんなにうるさい所に来てしまった。あ〜うるさい!」と言われるのかなと思ったのです。
ところが「いや〜! 騒がしくて、いいね〜!」と言われたのです。
そう言えば私の祖母もお正月やお盆に、私の母などの兄弟とその家族が祖母の家に集まったとき「騒がしくていいね〜!」と嬉しそうな顔をしていました。
いつもは一人暮らしで「みんなが来ると忙しく大変なのに、なんで?」と子供心に思っていましたが、祖母の嬉しそうな笑顔が忘れられません。
震災に遭われた方々も、一日も早く「騒がしくていいね〜!」と、沢山の笑顔や笑い声が出るように心よりお祈り致します。




NPO法人 日本ナラティブ音楽療法協会

札幌時計台の廻りは無人状態

 4月10日(日)に札幌で「音楽療法研究会」(音研)があり講師をしました。
 今回は「生きる」に関連した様々なテーマ。例えば「高齢で生きる元気がない。何も出来ない私が、生きていてもしょうがないと考えます。どうしたらよいでしょうか?」に対する言葉を考えたり、人類永遠のテーマである「人はなぜ生きるのか?」などを話し合い、私の座右の銘である「而今」(じこん)について伝えました。
 「而今」道元禅師の言葉で、「ただ今を、しっかり一生懸命生きる」という意味です。
 音研の後、時計台の近くで懇親会を行いましたが。日曜日というのに時計台の廻りには誰もいません。ビックリしてしまいました。
 東日本大震災の影響と思いますが、いつもは大勢の観光客がカメラや携帯を手に、時計台をバックに撮影しているのですが誰もいないのです。立ち止まって見ている人もいないのです。
 時計台前にある懇親会のお店も、日曜日の午後4時というのに私たち以外のお客は数名という状況でした。
 人が少ないというのは寂しい、元気がない、元気が出ないと実感した次第です。

NPO法人 日本ナラティブ音楽療法協会

2011年4月8日金曜日

三浦綾子記念文学館・音楽「ひかりと愛といのち」

 私(大湊)は、旭川にあります「三浦綾子記念文学館」内のBGM制作、そしてそのBGMをCDにして館内で販売して頂いています。
 旭川へおいでの節は、旭山動物園だけでなく、是非「三浦綾子記念文学館」にも足を伸ばして頂き、良く眠れる曲(^^)が10曲ほど収録されていますCDのお買い求めも、よろしくお願いいたします。ちなみに税込み2.100円です。
 なお、お越し頂けない方には、発送もいたしますので御連絡下さい。
 p.f@nifty.com

ひかりと愛といのち




NPO法人 日本ナラティブ音楽療法協会

2011年4月6日水曜日

舞人「高 玲子」

 昨日のブログに登場した、舞人「高玲子」(こう れいこ)氏について、以前執筆したコラムが出てきましたので御紹介したいと思います。


 人間の基本情動の中に「愛」は入っていない。

なぜか。

 「愛」の形は様々であり、いろいろな情動が組合わされることによって、愛という情動は形成されるからである。

 幸福な愛は勿論、心配や悲しみの底を流れている愛、嫌悪感の中に存在する愛、嫉妬やねたみを生みだす愛、快楽としての愛、神へ(から)の愛、愛がある故の憎しみ、母と子や兄弟に代表される肉親愛など様々である。

 相反すると思われる情動の中に存在する「愛」、「愛」ゆえに悲しみや憎しみが生まれる人間の性、これらを言葉ではなく舞うことで表現し続けている舞人がいる。

 舞人「高玲子」である。

 腕や手は勿論、指先・爪の先までが舞う舞人であり、空間をも舞人に寄り添い舞人の一部となる。

 「面」をもちいての舞であるが、微笑みの面から憎しみが溢れ、悲しみの面からは幸せがこぼれ落ち、面は刻と共に表情を変え、観る者を異次元の「愛の世界」へといざなう。

 舞人「高玲子」によって描き出される愛の姿は、観客と呼ばれる我々の過去や現在の己の姿を彷彿させ、自己の奥深い内面へ到達し魂を揺さぶるのである。

 揺さぶられた魂は自己解凍を誘発し、深く心の奥に閉ざされていた意識が表出し始める。

 舞人「高玲子」、時空間を共にする人々を自己の精神内界へいざなう舞人である。


NPO法人 日本ナラティブ音楽療法協会

2011年4月5日火曜日

中江紀洋展「北斗の彼方へ」

 先日、北海道立釧路芸術館を訪れ、彫刻家中江紀洋氏の作品に久しぶりに出会ってきました。

 中江氏は、本協会の理事であり舞踊家の高玲子氏と親しく、半世紀以上の友人であります。

 20年程前に高玲子氏が、阿寒の草原でおこなった中江氏の作品展(野外)で舞うというので出かけた折、中江氏と彼の作品に初めて出会い、魂が大きく揺さぶられたことを忘れられません。

 その数年後、北海道立帯広美術館での彼の作品展にも出向き「高玲子氏の舞」「私の音楽」「中江氏の彫刻」と3者によるコラボレーションを楽しんだ次第です。

 その時、友人の歯科医師から調達したという歯形を用いた作品達の前では、様々な音が・様々な物語が・様々な場面が・様々な感情が走馬燈のように廻りだし、動く事が出来ませんでした。

 北海道音威子府の彫刻家「砂澤ビッキ」氏の作品も、初めて彼の作品を前にしたとき同じように感動で動く事が出来ませんでした。

 晩年、居酒屋で出会ったときの彼のギョロリとした目を忘れることが出来ません。

 しかし同じ彫刻家であり、その作品達に魂が揺さぶられるのですが、2人の作品達はそれぞれ違う揺さぶり方をするのです。

 大まかな言い方をすると「砂澤ビッキ」氏の作品は、大地に、草木に、大陸に引きずり込まれていく感じに対して、「中江紀洋」氏の作品は、空、宇宙、永遠(とわ)に導かれていく感じなのです。

 砂澤ビッキ氏は「地」であり「地球」(アース)であり「太陽系」、中江紀洋氏は「海」そして「異次元」「過去・未来」なのです。

 是非、お二人の作品に接し、魂を震えさせて下さい。


NPO法人 日本ナラティブ音楽療法協会

2011年4月4日月曜日

たけし氏の言葉から考える音楽・歌

 被災者の方々へ「歌うことしかできないと言って、全然知らない歌を歌う、全然知らない歌手」というコメントが、たけし氏から発せられたという新聞記事を読みました。
 指摘はある程度「的を射ている」が、外れているところもあるように思われます。
 「的を射ている」方(たけし氏は、こちらのつもりで発言したと思います)は、何かをしなくてはが、何かを「してやろう」となり、「自分は歌うことでしか励ますことが出来ないと思うので、自分の作った歌を聞かせて、元気にしてやろう」と被災地で活動を目指す、自己満足な全然知らない歌手。しかもギター1本あれば元気に出来ると、食料・ガソリン・宿泊などのことは考えず、とりあえず出発し、被災者の皆さんから「元気になった、ありがとう」と色々な物を頂けるとの考えも頭の隅にある全然知らない歌手と思います。
 以前ある地方新聞で、これからプロを目指し音楽活動に専念する「人前で歌うことに慣れたい」ので、ボランティアコンサートを開く福祉施設を募集しているとの記事を読みました。
 福祉施設での音楽活動をそのように考える全然知らない歌手と、それを美談として堂々と記事にする新聞記者には、ビックリというよりあきれてしまった事を思い起こした次第です。
 たけし氏の発言で外れているなと思う点は、全然知らない歌手が全然知らない歌を歌っても、感動が襲ってくることが多々あるのです。
 音楽・歌には絶望・無力感を希望に・勇気にかえる大きな力が秘められています。
 その力を、その場・その時にうまく使って行かなければなりません。
 音楽療法士・音楽心理士の力量が試されます。

NPO法人 日本ナラティブ音楽療法協会

2011年4月3日日曜日

情報と心

 今回の震災情報、3月11日発生時から2週間ほどは地震時の映像や津波によって建物や車、田畑が押し流されていく様子が何回となくテレビの映像、新聞の活字などにより繰り返し報道されました。
 これら映像や活字による情報から、知らず知らずに疑似体験に襲われ、心に通常とは違う大きな変化が現れたことと思います。
 また、何かをしなければと思う気持ちが表れるのですが「何も出来ない自分」に対して苛立ちや焦りのような感覚も生まれたことでしょう。
 特に3週間ほど経ってから報道される内容は、ボランティアでいろいろな方々が現地に駆けつけ、様々な援助をし喜ばれている情報が多くなって来ました。
 しかしそのような情報に接することにより、何かをしたい、でも「何も出来ない自分」に対して、自分を責めてしまう心は生まれてませんか。
 あの人たちは遠くから駆けつけ、見ず知らずの被災された皆さんのために頑張っている、なんと素晴らしい人達なのだろう。その人たちと比べて「私は」。と思ってしまい、心の悪循環に陥ってませんでしょうか。
 被災された皆さんのため、そして日本を元気にするためには、まず私たち自身の心を元気にすることが大切なことと思います。
 そして元気な心を持って「無理をせず」自分が出来ることをおこなっていきましょう。

NPO法人 日本ナラティブ音楽療法協会

2011年4月1日金曜日

言葉でのコミュニケーション「話す・聞く」

 「一方的に話す」「黙って聞く」このような会話(?)でコミュニケーションは育ちません。
 心と心が通じない、相手の気持ちが読めないなど、共感が生まれないのです。
 話し上手・聞き上手の方は、話しながら聞き、聞きながら話す事により、お互いの気持ちがわかり、共感が生まれコミュニケーションが発達し、心がふくらんでくる、会話上手です。
 一方的に話す方は、相手がどのように感じているのか、何かを言おうとしているのか、などを読み取ることが出来ず、聞いている方はだんだんとその話から距離をとってしまいます。
 以前、私は居酒屋で一方的に話す方と対面で飲んでいました。
 その方から言葉が次々と発射され、私は飲むタイミングを失い、ビールジョッキを手に持ったまま15分、20分。本当に飲むタイミングがないのです。初めての経験でした。
 飲み放題だったのですが、90分で結局ビール2杯でした。勿論、帰宅してから飲み直した次第です。
 話の内容は自身の病気のことだったと思います。手を替え品を替え、言葉を替えて同じようなことを次々と発射されました。ビールも飲めませんでしたが、言葉を言うタイミングもつかめず、私が発した言葉は「え〜、うんうん、そ〜」などで、会話にはまったくなってなかったと思います。またトイレに立つタイミングも難しかったのを覚えています。
 今後、その方とは飲食の場には行きたくないと思ってしまいました。
 それでは黙って聞く方。ただ話を聞き、うなずいていればそれでよいのなら犬猫鳥の方が聞き上手です。
 話の内容や、その事に対しての考えを、打てば響くように相手に話す・反応することにより、弾む会話となりコミュニケーションが発達していくのです。
 話し方研究所会長の福田健氏は「会話は、話しながら聞き、聞きながら話す相互作用が活発であってこそ、楽しいのです」とコメントしています。

NPO法人 日本ナラティブ音楽療法協会