2014年12月26日金曜日

「私が楽器を演奏している」のではなく 「脳が楽器を演奏している??」


「私が楽器を演奏している」のではなく
「脳が楽器を演奏している?」




日本ナラティブ音楽療法協会 大湊幸秀


音楽ディサービスセンター(音楽療法がメインのディサービスです)で、音楽療法終了後の茶会タイム時に、利用者の皆さんから映画音楽などを弾いて欲しいとリクエストがあり、映画音楽やJAZZなどを毎回4~5曲弾いています。

弾いていて最近思うのです。
指が勝手に動いている?
「私が演奏している」のではなく「脳が演奏している」のでは、と!

メロ譜とコード譜でエレクトーンを演奏しますので、メロ(右手)、伴奏&リズム・刻み(左手)、ベース(左足)、音量(右足・右足は音量以外に、音符にアクセントを付けるなど重要です)、これら全てをアドリブで演奏することになります。
この時、ドレミを考えてから指や足を動かしていては遅いのです。私は考えていません。皆さんも同じと思います。
楽譜は見てるようで、見てないのかもしれません。

池谷裕二氏(脳学者)の著書の中に、意識を測定するために、人をイスに座らせて目の前にあるボタンを「好きな時に押して下さい」という、ボタンを押そうとしている時の脳の活動を測定する実験についての記載があります。
誰もが(皆さんもと思います)「ボタンを押そう」という意識が表われて、脳の運動野に伝わり手が動き「ボタンを押す」と予測しましたが、違ったのです。
実験結果は、先に「運動前野」という運動をプログラムするところが動き始めて、それからなんと1秒ほども経ってから「動かそう」という意識が表われたのです。脳の方が先に動き始めようとしていたわけです。
「動かそう」は「動かそうと自分では思っている」クオリア。

「動かそう」というクオリアがまず生まれて、それで身体が動いてボタンを押すのではなく、まずは無意識で神経が活動し始めて、その無意識の神経活動が手の運動を促して「ボタンを押す」という行動を生みだすとともに、その一方でクオリア、つまり「押そう」という意識や感覚を脳に生み出しているのです。

ボタンを鍵盤として考えると、指が勝手に動いて演奏、つまり「脳が演奏している」と考えられるのではと思います。

前出の池谷裕二氏(脳学者)の著書の中に「バイオリニストの脳を調べてみると、指に対応する脳の部分がよく発達している」との記述からも「脳が演奏している」と思われてきます。

ただし脳が全く勝手に「私」を無視して、指や足を動かし演奏しているのではなく、それまでの様々な経験から「私」に一番良いと判断した(脳が勝手に)音情報を演奏する。

つまり今まで練習してきた課程や様々な演奏を聴いた時に「私が“快”を覚えた」音・音程・リズム・音色・タッチ・フレーズなどを脳が再現(演奏)し、それを私(クオリア)は指揮者などのような第三者的に評価してさらに“快”(私が良いと思う演奏)へと導いているのではと考えます。
「指(身体)が覚えている」というのは「脳が勝手に覚えている」ことと思います。

野球でピッチャーとバッターの対決を考えてみましょう。(池谷裕二氏の著書から)
ピッチャーから150Kmのボールが投げられたとすると、バッターにとどくまでの時間は約0.5秒。
バッターは通常「ボールが投げられた」「このコースで飛んでくる」「速さは、150Kmくらいか」などと判断するまでに約0.5秒かかりますので、ボールが手元に来た時「バットを振れ」と思っても、時すでに遅しとなるわけです。

野球選手やテニス選手に「どのように考えて打っているのか」聞くと「何も考えてない。無意識だ」と答えています。これも、やはり脳が勝手に判断し手足を動かしているのです。

目からの情報は第一次視覚野へ向かいますが、視神経は視床の手前で視覚野へ向かうのと、上丘と呼ばれる脳部位に向かうものとに途中で枝分かれしています。
私達が見ているものは視覚野へ向かった情報によるものですが、上丘へ向かった視覚情報は意識上には現れません。しかし上丘は処理の仕方が原始的で単純なため、判断が速く正確。野球選手やテニス選手が考えなくてもボールを打てるのは、上丘で見て、判断している証拠となります。

いろいろと考えてみますと「私達の行動や考えなどは、脳によってコントロールされている?」

では「私は?」「私の意識は?」どうなる?

続きは、次回「ヒルズ・セミナー」(六本木ヒルズでのセミナー)でお会いしましょう。






NPO法人  日本ナラティブ音楽療法協会